俺は澤辺の行動をまだ、桜川さんに話していなかった。意図がつかめないし、ただのからかいかもしれない。騒ぎたてても一笑に付される可能性が高そうだ。イケメンの考えることは分かりづらい。
「お祭りなんですかね?」
桜川さんとの帰宅中。いつもより混雑した電車の中で、浴衣姿をちらほら見かける。
「行ってみるか」
俺たちは人波に合わせて下車した。流れに沿って歩いていると、屋台の並ぶ通りまで運んでくれる。
「今年は浴衣が多いな」
流行なのだろうか。女の子だけでなく、男も浴衣を着ているカップルが結構目に付く。俺はちらと桜川さんをうかがう。会社帰りのシャツを少しはだけて着崩している。夜のぬるい風に目を細める姿はそれなりに風情があるが、これが浴衣姿だったら……平常心を保てそうにない。
「暑そうだな」
桜川さんが俺の顔をのぞきこむ。
「あ、金魚すくいですって」
沸騰している自分をごまかすように、屋台へ近づく。
「こういうの、得意ですか?」
「俺のテク、見せてやるよ」
桜川さんが腕まくりをする。なんか、やらしいんですけど……
うようよと漂っている赤い集団のわきに、そっと網を差し入れる。水平に動かしながら手首を返すと、3匹一気におわんへ飛び込んできた。
「すげー」
「な?」
桜川さんは少々得意げに笑いかけると、また器用に金魚を追い込む。それは、接近してくる数々の男の間をすり抜けながら、うまくつまみ食いしてきた桜川さんの歴史を見るようだった。
「…………」
どうかしてる。楽しげな桜川さんを前に、俺は自分の勝手な妄想で、へこみかけていた。
「ほらやるよ」
俺の目の前に、金魚の密集した水袋が下りてくる。
「こんなに取ったんですか」
この人は、こんなどうでもいいことまで軽々こなしてしまう。
「でも、俺、水槽とか持ってないし……」
「あー破れちゃったー」
モタモタとためらっている俺の眼前から、ひょいと袋が取り上げられる。
「あげる」
朝顔の浴衣を着た小さな女の子に、それは差し出された。
「いいんですか」
「俺んとこ、ペット禁止なんで」
桜川さんが、母親らしき女性に笑いかける。
その微笑ましいやり取りの中、俺は無言で立ち上がった。人込みの透き間を早足で歩く。
分かっている。桜川さんにとっては、なんてことない。あの女の子は1匹も取れないまま、紙を破いてしまった。俺も金魚なんて要らない。ああするのが一番平和な解決で……
ポタ、ポタ、バタバタバタ――
前触れもなく、大粒の雨が頬をぬらす。
「俊哉」
後ろからかすかに呼ぶ声は、雷の音にかき消された。俺は足取りを強める。
つかまりたくない。金魚みたいに簡単に。
俺は何に対してか意地になって、逃れられない雨から逃げ惑う人々に紛れて走る。
川沿いの土手を下りて、人気がないのを確認すると、スピードを緩めた。
息が、苦しい。
ここは穴場だな。花火をしていればの話だが。
ずぶぬれで、暗い夜空を見上げる。突然、背後から肩をつかまれた。
「あ」
全速力で走ってきたはずなのに、もう追いついたのか。おまけに、ぬれた姿まで様になっている。
「涼しくなったな」
しとしとに変わった雨の中、桜川さんが微笑む気配がする。俺はふてくされていたことを思い出して、振り向いた顔を戻す。
「金魚、ほしかったのか?」
桜川さんが、俺の背に問う。
「いらないです」
ただ――
俺は再び振り向くと、桜川さんをぎゅっと抱きしめた。
「俺のだ」
桜川さんの首筋に、鼻先を擦り付ける。
「そうだな」
たいして努力することなく、すべてを手にしてきた人種には、この痛みはきっと分からないだろう。澤辺もそうだ。余裕がありすぎて、ほしくないものにまで気軽に手を出す。そして、飽きたら惜しげもなくほうり出す。
それでも、桜川さんは優しく俺の背をなでた。それだけで、気持ちが通じたような気分になった。バカみたいなことにこだわっている自分が情けなくて、涙がにじんだ。
「すみません……」
あきれられただろうか。ぬれた頭で冷静に考えてみれば、桜川さんのせいじゃない。俺が勝手に混乱しているだけだ。
「ん」
桜川さんの手が、さらに優しく……? 妖しい動きを始める。
「あのっ」
尻にまで下りてきた指の動きにうろたえて、顔を上げると、桜川さんの肩がクックッと揺れた。
「俺のなんだろ?」
「それは……」
そうです。桜川さんのものが俺のなら、俺は当然……結局かなわないのは分かりきっているわけで。忘れていた暑さが急激にぶり返す。
「それとも、帰ってからにするか?」
待てるわけない。
「……雨がやむまで」
微妙に意地を張ったまま、俺は急いで桜川さんに口づけた。それを受けとめる舌の動きに翻弄されながら、桜川さんにすくわれるなら金魚でもいいか、と俺は今ある自分の幸せに満足することにした。
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