月下美人(18禁)→
「君」
残業の休憩に出たところを呼び止められる。篠原は顔を上げて、軽く固まった。
「まだここにいたのか。大原君は元気かい」
声を出さずにうなずく。かつて大原のスポンサーになろうとした男。というより、本人は篠原のパトロンのつもりだったのかもしれない。立ちすくんでいる篠原を満足げに確認すると、近づいてくる。
「少し、髪が伸びたね」
根元から優しくすく。びくっと肩を揺らしたが、そのままやり過ごす。
「いい子だ」
あ。あいつ……やばいんじゃねーの?
打ち合わせを終え出てきた堀田は、半分笑顔でこぶしを固く握り締めている篠原を見つけ、割って入ることにする。
「勘弁してくださいよー」
篠原の腰を抱き、引き寄せる。
「えっ?」
驚き振り返る篠原に目くばせし、あくまでへらへらと男に笑いかける。
「これ、俺の。ねっ?」
「そうか」
男は好色な笑みをますます深くすると、髪から頬へと手の平を移す。
逆効果か――?
篠原が背後から、堀田のそでをぎゅっと握った。
「こんな所にいたんですか」
そこへ若い声が加わる。
「広尾……」
篠原が口の中だけでつぶやいた。
「会ってもらいたいのは、そっちじゃなくて……」
広尾は男から篠原に目を移す。
「元気?」
「ああ」
そでを握る手に力がこもる。
「こちらへどうぞ」
「ああ」
広尾は営業用のスマイルに戻ると、男を誘導し、去っていった。
「行ったな……」
ほっと一息つくと、堀田は一言言ってやろうと、篠原の方を向いた。
「お前、いやならもっと……」
うっそんな顔するんじゃねーよ。
篠原の不安げな瞳とぶつかって勢いを失う。
「あ」
そでを握る手から力が抜ける。
「鉄郎」
「誤解するなよ」
堀田も篠原の腰から手を離す。
「スケベじいさんに絡まれてたのを助けてやったんだからな」
笑いながら弁解する堀田をちらりと見ただけで、鉄郎は通り過ぎる。
「鉄郎」
あわてて追う篠原を見送る。
あいつら、大丈夫かー?
「鉄郎」
立ち止まって篠原を見る。その目には嫉妬の熱さはなく、ただ冷え冷えとしていた。
「いつも、そうなんですよね……」
「え?」
「篠原さんを助けるのは、いつも俺じゃなくて……」
少し笑って篠原を見る。
「すみません、先、帰ります。一人で考えたいんで」
「ん、分かった」
篠原が静かに引き下がった後、手で顔を覆う。
タバコがほしい。
夜の道に出ると、空を見上げる。今夜は月の魔力が消えている。変に頭の芯がさえわたり、知らなくていいことまで気づかされてしまう。
「テツローさん」
コンビニに向かおうとする鉄郎の前に、香る月が現れた。
「どこ行くの?」
「……別に」
タバコよりも刺激的な存在に、急速に気持ちが奪われる。
「メシ行こうよ」
「ああ」
月のない明るい夜道を香月と歩く。また、あの花の香りをかぎたくなっている自分からは目をそらしながら。
「イタリアン? だめだめ、中華にしよう」
割と気に入っている店に足を運びかけた鉄郎を制し、香月好みの店に引っ張っていかれる。
「ここ、すげーうまいから」
自信満々な笑顔に、食欲がわいた。
「……あと、デザートにマンゴープリンね」
メニューを開くなり、てきぱきと注文を繰り出す香月を、半ばあきれて眺める。
「テツローさんもなんか頼む?」
最後にやっと鉄郎に意見を求める。
「いや、それでいいよ」
食に興味の薄い篠原に対して、食べたい物でもビジョンのはっきりしている香月は新鮮で、悪い気はしなかった。
「こんなに食えるのか?」
「へーきへーき」
並べられた皿の量に一瞬おじけづくが、顔に似合わず次々と料理をほおばる香月に若さを感じる。つられて、鉄郎もはしを取る。
「あ、うまいな」
「でしょー?」
「いつも、こんななのか?」
「いや、色々だよ。今日は中華の気分だからここ」
じゃなくて……
「はっきりしてるんだな」
「そりゃ、自分の欲しい物はいつも把握してるよ」
はしの勢いを止めず、香月がにっと笑う。
「……仕事でもか?」
「まーね。自分のしたいことのためなら多少の我慢はするけどさ、したくないことのために我慢はしない」
「私情で生きてるな」
「もちろん、人生楽しまないとね」
見覚えのある笑顔だった。
「あ、欲情した?」
「まさか」
ただちょっと、まぶしかっただけだ。
「雨だ」
満腹で店を出ると、小雨がぱらついている。
「タクシー……」
「いいよ、気持ちいいからぬれて帰る」
いつも発熱しているみたいな奴だな。
「じゃね、またさびしくなったら呼んでよ」
「え」
顔を上げたときにはもう、香月は交差点の向こう側だった。信号が変わり、車が2人を隔てる。
空を向き、顔で雨を受けた。香月の言うとおり、ほてった頭が冷やされて、気持ちがいい。目を閉じると、まぶたの奥に満月が見えた。その輝きは、香月の生意気な笑顔に似ていた。
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満月(15禁)