待ちわびたこの瞬間。それは岡山も同じだったらしく、桜川さんに視線を送ろうとした俺の肩をがっちりとつかむ。
「飲みいこーぜ」
「え」
「桜川さんも誘えよ」
「なんで俺?」
「仲いいみたいじゃん」
昼食を共にしたことを言っているのだろうが、不必要にどぎまぎする。
「何、取り込み中?」
背後から当人に声をかけられて、心臓がガクンと揺れる。
「これからビール、桜川さんも行きませんか?」
岡山がうれしげに俺の肩から手を離す。
「花見の仕切り直しってことで」
「いいね」
どこから見ても、きれいな先輩のさわやかな笑顔。それでも、その透き間からのぞく舌に含みを感じてしまう俺は、骨の髄まで桜の毒に侵されている。
「いい花見できそうじゃん」
先に立つ桜川さんに愛でる視線を送りながら、岡山が俺にささやいた。
「桜川さんって酒強いですか?」
小さな居酒屋、壁の造花で俺らは花見としゃれ込んだ。乾杯の後、桜川さんの口の端についたビールの泡の行方を目で追いながら、岡山が聞く。
「ああ俺、結構いけるよ」
ペロッと舌でなめ取るのを直視できなくて、俺はうつむく。
「へー意外ですね。なんかこう、すぐ酔って、肌をぽっと桜色に染めるとか……」
「なにそれ、名前のイメージか?」
「色っぽい展開を期待してたんですよ」
桜川さんが笑いながらネクタイを緩める。
「俺、実は案外酒弱くて……」
岡山がその動作を凝視する。
「つぶれたら、優しく介抱してくれますか」
「やだね。捨ててく」
「連れ帰ってくださいよ」
「宮城、頼んだ」 桜川さんが俺を苗字で呼ぶ。俺はあいまいに笑ったまま、ビールを口にする。
「いいよな、お前研修担当、桜川さんだったんだろ?」
「うん……」
『み、宮城俊哉です!』
俺はフルネームで頭を下げる。
『桜川日和です』
桜川さんが笑いながら、俺に合わせる。
『あ……』
唇が桜色。
『なに?』
『いえ……よろしくお願いします』
言えるはずがない。きれいな顔にぴったりな名前ですね、なんて。
『よろしく』
思い返せば、一目ぼれだった。
「……だよな?」
「え?」
いきなり現実に引き戻されて、俺はまばたきを繰り返す。
「もう酔ったか?」
桜川さんが、岡山と笑う。
「あの、えっと……顔洗ってきます」
俺はあわてて席を立った。
鏡の中の俺は、たいして飲んでもないのに、頬が赤くほてっていた。冷たい水で体温を下げる。ペーパータオルで顔をぬぐいながら、岡山の言葉を思い出す。
『俺、桜川さんならイケるね』
岡山に限らず、桜川さんが卑わいなジョークのネタにされるのは幾度か耳にしたが、自分はできるだけ避けてきた。下半身の慰めに、あのきれいな顔を夢想することに罪悪感があったので、おかずにすることもなかった。あの日までは。抑えこんだ欲望が初めて顕在化したのが花見の日の夢で、それをよりによって桜川さんに見られてしまうとは。
これは下卑た肉欲などではなく、美しいあこがれという感情なのだと言い聞かせ、社内で一番人気、しかも男におぼれまいとする俺のささやかな抵抗は、全て無駄だったわけだ。しかも予定外に突っ込まれても、あえいでイって、あまつさえ今ではそれを心待ちにする始末。
さよなら、あの頃の俺。岡山も、そこまで目覚める覚悟はあるまい。
勝ったような負けてるような複雑な気分で、鏡の向こうの物欲しそうな顔から目をそらした。
い ろ は に ほ
へ