職場で、あるうわさを耳にしていた。広尾が独立に向けて準備をしているらしいこと、それに篠原を引き抜くつもりではないかということだった。広尾はコマーシャル戦略にたけているし、特に人材を集める能力があった。その広尾が自分の新しい会社に篠原が必要だと考えるのであれば、何が何でも手に入れようとするだろう。
どんよりと曇った空の下、俺の心は不安と焦りに包まれていた。
そんな折、広尾のチームのサウンドを担当することになった。打ち合わせの後、広尾がついでのようにその話を持ち出す。
「もう聞いてるだろ? 俺が独立するってうわさ」
「ああ」
何が言いたいのか、ぴんときた。
「直樹にも悪い話じゃないはずだぜ」
ほらきた。
「篠原さんはここで満足してるって」
今日も楽しげに仕事をこなしている。
「今はな。けど、いつまで一線で活躍し続けられるか分かんねーだろ。この業界、入れ替わり激しいからさ」
確かに。篠原に管理職が勤まるようには、到底思えなかった。
「俺と一緒に来れば、今までの人脈と才能をいかして、もっと自由な立場でいられるし」
悔しいが、こいつだったら、篠原の望む環境を整えることが可能だろう。
「自分の成功のために利用するだけだろ」
「直樹はそんなの気にしないだろ」
その通りだ。2人の利害は一致する。
「直樹が鉄郎と一緒がいいって言うんなら、来てくれてもいいし」
俺はオマケか。
「いらねーよ」
俺は胸に抱えた不安を早く打ち消したくて、篠原の所へ直行した。
「ちょっといいですか」
何やら話し込んでいた大原が、席を外す。
「なに?」
篠原が、にこっと俺を見る。
「……広尾が独立するって」
「ああ」
篠原も聞いているようだった。
「行くんですか……篠原さん」
「俺? 行くわけないじゃん。あいつのとこなんか」
篠原があっさり否定する。
「代わりの奴、何人か紹介しといた」
既に篠原には根回し済みだったのか。ならなぜ俺にあんな話を持ちかけたのだろう。俺が言えば、篠原の気が変わるとでも思ったのだろうか。
「なに? 鉄郎も誘われた? もし行きたいんだったら、別に……」
「行きたくないです」
俺はあわてて否定した。
「いまどき独立なんて……俺はあいつと心中する気はないですから」
ここを離れる気はないことを、広尾への嫌味を込めて力説する。
「……でも、篠原さんのためにはいい環境なんじゃないかって……」
「はは、俺も広尾に言われたよ。鉄郎みたいなアーティストタイプは、もっと自由にやれた方が才能をいかせるって」
「……なんだ」
力が抜ける。
「篠原さんこそ、もっと自由にやりたいんじゃないですか」
「あいつの所ではいやだ」
「どうして?」
「嫌いだから」
「そりゃそうだろうけど」
あれから何もされてないようだし、ビジネスではお互い利用しあう関係として割り切ったりしないのだろか。
「俺は仕事とプライベートを区別しないんだよ。嫌いな奴とは、遊ばない」
そういえば、遊びの延長だと言っていた。
「私情で生きてますね」
「もちろん」
篠原がきっぱりと微笑む。
「じゃ、俺の音楽を認めてくれたのも……」
「もち、私情ですげーかっけーと思ったからさー」
「あ、そうですよね」
「もしかして、俺が鉄郎の魅力にやられちゃったと思った?」
篠原がニヤッと笑う。
「そんなことは……」
思えば、自意識過剰な勘繰りだったことに気づく。
「鉄郎のことは、ちゃんと両方愛してるからさ」
「両方って?」
「顔と体」
才能と人格じゃないのかよ。
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